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月と常夜灯

常夜灯系作家・結来月ひろはの公式サイト

誕生日に死ねと言われた話

※タイトルにもあるように「誕生日に死ねと言われた時の話」になります。

※いじめに関すること・自殺に関することふれているのでに、そうした内容が苦手な方は閲覧をお控えください。気分がいい話ではないので読まれる際は無理はなさらないようにしてください。

※某ドラマでも主人公が言っていたように「いじめの加害者はたとえ被害者が死んでもノーダメージで、被害者のことなんか忘れてのうのうと笑って過ごすだけなので、そんなやつのためにどうか死なないでほしい」ということを伝えたくて、このブログを書きました。
この記事がしんどい思いをしている人に少しでも寄り添えるものになれば幸いです。

このことは、いつか書こうと思っていました。
誕生日が来るたび、思い出さないことはありませんでした。
ようやく自分の中で書けるのではないかと思えたので、この記事を書くことにしました。

9月1日は自殺者が多い日と言われています。
自ら命を絶つ選択をする人は色々な理由や事情があってのことですが、その理由や事情のひとつにいじめがあります。

学生時代、9月1日の始業式で学校の生徒が亡くなったことが伝えられました。
死因はぼやかされていましたが、生徒間で噂が回っていたことと「命を大事にしましょう」という話があったので自殺だとはわかっていました。

始業式が終わって教室に帰ってきた時、私をいじめていた生徒たちがゲラゲラ笑い出しました。
「自分で死ぬとか馬鹿やろ」
「自殺とかほんま意味わからんし」
「なんの意味あんねん」
「くだらん話聞かされて、まじでだるいしめんどいんやけど」

なぜ自殺したのか原因はわかりません。
それでも人が死んだ話を聞いた直後に亡くなった人を馬鹿にして腹を抱えながら笑えることが信じられなくて、この時の笑い声は今でも覚えています。
人のすべてを見下し、否定して馬鹿にしたようなあの笑い声は忘れたくても忘れられないです。
その中でひとりが私をまっすぐに見て、言いました。

「お前も早く首括って死ねばいいのに」

他の人もこの発言に同意していました。

この時の気持ちはなんと言っていいのか……今でもわからないです。
ただ「この人たちは私が死んでも、反省も後悔もせずに馬鹿にして笑うだけなんだ」「私が命をかけたところで、なんのダメージも与えられないんだ」と思ったことは覚えています。

担任もこの時教室にいて、やりとりを全部見聞きしていましたが、なんにも言いませんでした。
助けてくれるという期待も希望も担任には持っていませんでしたが、このことが決定打となり先生というものを一切信用しなくなりました。
恩師と呼べる人に出会うまで、私は先生が大嫌いでした。

皮肉なことに死ねと言われたことがきっかけで「意地でもこんなやつらのために死んでたまるか」と死にたい気持ちを抑えることができました。
私が死んだところで一切ダメージも与えることができない、追い詰められて死を選んだことすら平気で馬鹿にして笑って、なんなら本当に死んだと喜んで、それなりの人生を生きていくのに、なんでこんなやつらのために死んでやらないといけないんだと。

「消えてしまいたい」と思っている時に「そんなことを思わないで」とか「生きていればいいことがあるよ」とかいう言葉は地獄に突き落とすようなものでしかなく、そうしたことを言われるたびに「お前は地獄で生きていろ」と言われた気持ちでした。

あなたは当事者じゃないからいいよね、今は成功して必要とされて認められてるからそんなことが言えるんでしょう、なにがわかるの、綺麗ごとを言うなと、色々なところで見聞きする励ましの言葉に対して当時の私はそう思っていました。

たとえ、かつて同じような経験をしていたとしても「だからすべてがわかる」なんて、そんなものは傲慢でしかありません。理解できたとしても100%ではないし、そんなことはあり得ません。

わかっています。それでも伝えたいです。
加害者は被害者のあなたが死んでも、反省なんか絶対にしません。
そんなつもりはなかったんだとか、冗談だったとか、勘違いだとか、考えすぎだとか……。
死人に口なしをいいことに、すべてを被害者に押し付けてきます。

謝罪したとしても、心からなんか謝罪しません。
そんなもの「とりあえず謝った」という実績づくりにすぎません。
人の命を奪っておきながら被害者のことや時には自分がしたことすら都合よく忘れて、笑って好きなことをして楽しんで、これからも生きていきます。
被害者に待っていたはずの楽しいことや嬉しいことや幸せを奪っておきながら、自分は幸せになります。

そんなやつのために死んでやる筋合いなんかないんです。

だから、そんなやつのためにどうか死なないでください。
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